100点を目指さない。等身大の私が作る“きちんと”した生活

社会人になって独り暮らしも数年経つと、「私は“きちんと”生活しているのか?」と気になることが増えてきた。コンビニ弁当が良いとも思っていないし、やっぱり自分で作った料理の方が満足度は違う。そんなことは百も承知だけれど、明日も朝早いと思うと、とにかくお腹を満たして早く寝たいという気持ちの方が大きくなる。

 

憧れているのは、『仕事のある日も、三食全て手作り料理』『夜はゆっくりお風呂につかって、肌や身体のケアの時間をとる』『整理整頓され、洗濯物も、洗い物も、埃もたまっていない部屋』『一体一日何をしていたのかと、疑問に思うことのない休日』だ。

 

雑誌や本に登場する人が理想的な生活を実現できているのは、きっと、スーパーウーマンだからなのではなく、たくさんの失敗と工夫を積み重ねてきたからなのだろう。そう思っても、理想への道のりが遠く感じ、「疲れた」が先行して、「自分もやってみよう」という気持ちが湧かない。

 

それに、「仕事が人生の全てではない」「仕事のために他のことを犠牲にするスタイルはダサい」という価値観が広がっている中で、仕事を基準に生活を調整している自分は「何やってんだろう」という脱力感すら芽生えてくる。

 

そんなことを悶々と考えていて、わかったことが一つある。私は完璧主義なのだ。思い返せば、小学生の頃から、作文、絵などの作品、レポートでも、自分が納得できるまで、とことん時間をかけ、「ある程度形になった」と思うまでは人に見せなかった。小学校高学年の時、100人近い同級生と体育館で書初めをしたが、私は最後の一人になるまで粘って書き上げた。私にとっては、提出期限よりも、自分の中の100点に近いかどうかが大事なのだ。

 

けれど、100点を目指そうとするからこそ、疲れてしまうのだと気がついた。物事は、「やらなきゃいけない」と思った途端、義務として重くのしかかってくる。

 

「あれもしなきゃ」「これもしなきゃ」と頭がいっぱいになって、心がきゅっと縮こまってしまうと、不思議と身体は動かない。すると「できない」ことに目がいって、さらに落ち込む、という悪循環も生まれてしまう。

 

ヒントになったのは、身体が不調を感じた日の過ごし方だ。ちゃんとケアをしたいと思ったので、仕事から帰ったら、冷凍ご飯を温めて、コンビニで買ってきたおかずを食べた。食事に時間をかけない分、ゆっくり湯船につかり身体を温めた後、久しぶりにストレッチをしたら、満足して眠りにつくことができた。

 

私の体力も、持っている時間も無限ではない。憧れの生活はあくまで憧れで、今の私には実現不可能だ。なら、何に時間とエネルギーを費やすのかを決めた方が良い、と思うきっかけになった。

 

今、私は、「日々変化していく心と身体を優しく受け止め、何を大事にしたいのか、どこに力を入れたいのか、見極めて過ごしていきたい」「100点をとれない自分を許し、“今できる範囲”という区切りをつけて力を出しきりたい」と思っている。

 

それを実行するにあたって、ふと思ったこと、感じたことを書き留めておくことが、思いのほか役立っている。目まぐるしい日常の中で、自分の気持ちや、ちょっとした違和感は、すぐ雑音にかき消されてしまう。

 

それらに自覚的になって、素直に行動したら、自然と力点が見えてきた。例えば、体の痛みや疲れはサインだと受け取り、ケアの時間を取る。自分が楽しい、面白いと感じることや、なんとなく惹かれるものができたなら、手を伸ばしてみる。(ちなみに、私の今のブームはフルーツを食べることと、最近始めたお茶の稽古だ。)

 

原稿の執筆や、参加している講座など、頑張りたい、やってみたいことは仕事よりも優先順位を高くする。

 

力点がはっきりした分、家事で手が届かない部分は、ちょっと目をつぶる。頑張りたいこと、やりたいことでも、100点を目指さなくて良いと思うと、変な気負いがなくなり、決められた期限の中で作りあげる、ということができるようになってきた。

 

また、気持ちが上向かない時は、やることを一つに絞り、お茶を飲んで息抜きの時間を作る、何もせず、ダラダラして、映画や漫画を見て、そしてまた寝て…という日があって良しとする、本気で何もしたくない時は、実家に帰るなど、力の抜き方も覚えてきたように思う。

 

100点の理想形に無理をして自分を合わせるのではなくて、等身大の私に合った形をその時々で作っていく。そんなバランス感覚を持ち、実行していくことこそが“きちんと”生活している、ということなんじゃないだろうか。

20代。介護職。最近のテーマは、自分に合ったペースで、いかに一日を気持ちよく過ごすか。生活の中に音楽を取り入れたくて、CDプレイヤーを買った。