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2020-05-04

連載「ものとわたし」第五回 他の家の子になったガスコンロ

自分の身の回りの「愛しいもの」を思い出して、大切に額縁に入れるようにエッセイにしていく連載「ものとわたし」。物との思い出を振り返りながら、買って捨てるを繰り返すのではなく「愛しいもの」と長く暮らす、そんな生き方を考える。

この春、引っ越しをした。結婚前に夫と住み始めた部屋では、娘との3人暮らしが手狭になったためだ。

2DKの小さなアパートは、何軒も見た末に私が「ここがいい!」と言った部屋だ。駅から徒歩7分、角を曲がればすぐにパン屋さんがあり、大きな窓からはたくさんの光が入る。「窓が大きくてたくさんあると、部屋が寒いんだよ」なんてことは、誰も教えてくれなかった。いや、もしかしたら夫がそう言ったかもしれないけど覚えていない。もう6年も前のことだ。

この6年は、振り返ればあっという間だったけれど、実際は結構長くて濃いものだったように思う。数えてみたら、夫と私、ふたり合わせて10回ほど転職していた。仕事の愚痴をダイニングで言い、新しい職についた喜びをリビングで分かち合い、仕事に向かう夫を玄関で見送った。住み始めた当初、人生に迷う若者だった24歳だった私たち。今年で30歳になるというのに、人生に迷っているのは相変わらずな気がする。

そんな小さなアパートで、私たちの暮らしをずっと見守ってくれていたのが二口ガスコンロだった。暮らし始めてすぐに買った置型のガスコンロは、特に気に入っているわけでもなく、あまり目立つこともなく、ただキッチンの端っこでずっと私たちの食事を支えてきた。

「次の家にはコンロがついているから、今の置型コンロは処分しないとね」

引っ越しが決まったとき夫にそう言われて、ハッとした。そうだ、次の家には3口ガスコンロがついていて、キッチンも広くなって、ものすごいアップグレードなのだ。長い付き合いだったこのコンロともお別れだ。

「引っ越すのだけれど、誰かコンロ欲しい人なんて、いないよね?」

ガスコンロって普通ゴミや粗大ごみで出せるんだっけ。ちょっとした面倒臭さを溢す気持ちでSNSに書き込むと、友人からまさかの「ほしい」との連絡。家にコンロがなく、アウトドア用のカセットコンロで生活しているのだという。

まだまだ使えるのに捨てるのは忍びない。ただでさえやることの多い引っ越し中にリサイクルショップを探すのも面倒。そんな中で、もらってくれる人がいたのは、本当に朗報だった。

すぐにサイズを測って、ぜひに、と返信する。彼女のキッチンにもぴったりハマるとわかり、無事に引き取ってもらえることになった。引き取り手が見つかった安堵とともに、チクリと急に寂しさが忍び寄ってきた気がした。引っ越しまで、あと2週間。

 

 

貰い手の見つかった我が家のガスコンロは、それはそれは汚れていた。使い込んだ五徳(鍋を置く部分)には焦げがこびりつき、換気カバーやガス栓に伸びるホースは最後にいつ触ったかもわからない。魚焼きグリルの奥を覗くと真っ黒だった。

こんな状態では、とてもじゃないが友人に送ることはできない。というわけで、母を呼び寄せ、大掃除を開始した。引っ越しまで、あと3日。これ以降は、もう料理はしないと決めてのことである。

まるごと水洗いはできないので、できる限り分解し、各パーツを重曹でつけ置き。そちらは母に任せて、私は本体をスポンジでこすり始めた。最初は「とにかく早くきれいにして送っちゃおう」と思っていたのが、掃除をしていると「今までありがとな」とだんだんガスコンロが愛おしくなってくるから不思議だった。

一時期、夫婦で塩サバにハマって毎日のようにグリルで焼いたっけ。鍋敷きごと鍋を火にかけて、焦がしたこともあったなあ。娘のお粥を吹きこぼしたのは一度じゃなかった。毎日毎日、よく働いてくれたねえ、コンロくん。

そうやって懐かしい思い出に浸りながらこすっていくと、徐々に買った当初の姿に戻っていく。ああ、そうだ。このガスコンロに火がついたとき、初めて「ここで暮らしていくのだ」と実感したんだ。

いくらこすっても落ちない焦げもあった。6年間しっかりと料理をした証である。落としきれないことを友人に申し訳なく思いながらも、最後には、そんな焦げすらも愛おしく感じるようになっていた。水滴を拭き上げ、部品をテープで固定して梱包。箱詰めを終えて一息付くと、コンロがあったところはポッカリと穴が空き、部屋全体がずいぶんと変わって見えた。

引越し当日。物が運び出された部屋を見回して「ここ、こんなに広かったっけ」と夫と笑う。そうだ、この光がたくさん入る大きな窓が気に入っていたんだ。

この家で、夫と暮らし始めて、最初は喧嘩ばかりだったことを思い出す。まったく違う環境で生まれ育った人間が、ひとつ屋根の下、それぞれの部屋すらない2DKのアパートで暮らすのは大変だ。この家で喧嘩をし、仲直りし、そんな日はふたりで映画を見ながらアイスを食べる習慣があっという間についた。

妊娠がわかり、模様替えをし、ベビーベッドを置いた。このときすでに狭く感じていたけれど、大好きなアパートから引っ越すという決断はできなかった。娘が生まれ、ハイハイするようになり、床にあったものがどんどん上へと積み上げられていく。つかまり立ちするようになると、すべての棚に柵がつけられた。離乳食はもちろん、お食い初めの鯛も、あのコンロで焼いたのだ。

ああ、いよいよ、お別れだ。引っ越し作業で忙しくしていた日中はあっという間に過ぎ、部屋に差し込んでいた西日がいつの間にか消えた。外が暗い。もう電気も通っていない部屋のなかは真っ暗で、なんだか泣いてしまうかな、と思った。

ブーブー、とスマホが震えた。

「もう、すっかりうちの子です」

友人のキッチンに置かれて鍋を温めている、あのガスコンロの写真があった。

おお、コンロくん。きみも新しい家で、新生活を始めたのだな。そんな励まされるような気持ちになって、最後にもう一度部屋を見回した。よし、私も帰ろう、新しい家へ。

もう開けることはないドアを最後に閉め、一度だけ振り返ると、私は新居へと歩き出した。まだまだ寒いと思っていたのに、夜風はすっかり春だった。

1990年東京都生まれ。学生時代に国際協力を専攻し、児童労働撤廃を掲げるNPO法人での啓発担当インターンとしてワークショップなどを担当。製造業や野菜販売の仕事を経て「もっと消費者が作り手のことを思う世界にしたい」という思いから、主に職人や物の向こうにいる人に取材・発信している。刺繍と着物、食べること、民族衣装が好き。

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