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2019-04-12

連載「ものとわたし」第一回 「わたし」のはなし

買い物がきらいだ。

小さい頃からあまり物欲がなく、妹のように「ほしいー!買ってー!」と駄々をこねた記憶もない。どちらかといえば、小石でポケットをパンパンにして帰ってきたり、大量のダンゴムシを飼おうとしたり、道路に寝そべって空を見上げているのが話題になるような子どもだったのだ。「物」自体にあまり興味がなかったのかもしれない。

それでも一応は現代人として生きてきたわけで、洋服を着て、お菓子を食べ、女子高生にもなれば友達と遊ぶときは買い物によく行った。

流行のファッションを教わり、初めて化粧品に手を出したのもこの時期だ。おしゃれな文房具、ちょっと高いヘアアイロンなんかも、当時は必要だと思っていた。

「ストレス発散だよねー」なんて、当時は本気で言っていたけれど、今思えば、周りから遅れを取らないように、どうにかイケている自分になるために物を買っていたのかもしれない。(なのに全然イケていなかった……)

まあ、何も考えずに当たり前のように物を買い、当たり前のように消費してきたのである。

そんな私の「買い物」という概念を、がらりと変えた出会いがある。大学で国際協力を学んでいくうちに知った「児童労働」という、それまでとまったく違う視点だ。

「児童労働」とは、18歳に及ばない子どもが、義務教育を受けられないほどに働かされたり、法律で禁止されている危険な労働をさせられていること。世界ではいまだ、10人にひとりの子どもがそのような状況にあるという。

労働を強いられる子どもたちが関わっている分野は多岐に渡る。遠い国のどこかの話に聞こえても、実は私たちの生活と無関係とは言えない。

「あなたのチョコレート、子どもたちが作ったカカオからできているかもしれないんだよ」

そう言われて、どきっとした。私のかばんには、当時よく買っていたチョコレートが入っていたから。これも、もしかしたら子どもたちの手で?

チョコレートだけじゃない。その頃ようやく飲めるようになったコーヒーや洋服に使われるコットン、携帯電話を作るのに必要な金属も……。私の生活を豊かにしてくれている物の多くが、自分よりも年下の子どもたちによって作られているという事実が、そこにはたしかにあった。

罪悪感。最初にあふれた感情は、これまで何も考えずにただ消費してきたことに対する自分に向けられたものだった。日本で生まれた私と、途上国で生まれた彼ら。生まれた場所が違うだけ、という圧倒的な理不尽の上で、何も知らずに暮らしてきたことが単純に恐ろしかった。

「生まれた場所が悪かった」「自分は日本に生まれてよかったな」

そんなふうに簡単に済ませることはできなくて、恵まれた環境に生まれた私は、ここで得たものをこの理不尽をなくすために使わなければいけない、と思うようになった。

国際協力を勉強していくと、児童労働だけでなく、大人でも安い賃金、劣悪な環境で働かされている現状を知るようになった。

苦しい環境で働かされた人々が作った物が、世界中で使われている。そう思うと買い物に行っても、店に大量に並んでいる物を見るだけで気分が沈むようになっていった。

大量に作られて、大量に捨てられることを前提に作られた物たち。買ってもろくに長持ちせず、流行はとてつもない早さで過ぎ去り、リサイクルされることもなく、記憶に残るのかもわからないような物たち。そんなもののために、資源は消費され、環境は汚され、人々は劣悪な環境で働かなければならないのだろうか。本当に?

すごく不毛で、切なくて。ただでさえ私は、石ころやダンゴムシを好み、空に流れる雲を見ていれば幸せだったのだ。カラフルな商品はどれも同じに見えて、消費に疲れた私は「買い物」から逃げるようになってしまった。

そう言いながらも、山に籠もった仙人のような生活をしてきたわけではない。物を買わずに生きていくことは難しくて、私はなんだかんだ、今も買い物を続けている。それに「物を買わない」ということが、正しいとも思わない。

本来、「買い物」というのは気持ちが良くて、テンションが上がることなはずで、「物」は、自分の人生を豊かにしてくれるものだろう。ずっと欲しかった物が手に入った喜び、買った物で自分がレベルアップできたような感覚、私も知っている。

私は「買い物」がきらいなんじゃないのかもしれない。「買って捨てる」を繰り返すことに疲れてしまっていたのだ。どこかの誰かが決めた「今年の流行り」に乗るために、「また買えばいいから」と安さを追い求めるために、「買って」、「捨てて」、また「買う」というループに。

この状況から脱したい。私も含め、多くの人の「買って捨てる」ループを緩やかにすることが、大量生産をなくすことにつながるんじゃないか。企業を変えられるのは、消費者の力なんじゃないか、と最近は考えている。

「すぐ捨てない」ということは、当たり前だけど「ずっと使う」ということだ。「これから長い付き合いになる」と思って買い物したら、今と同じ物を買うだろうか。

私には「ずっと大切に、長く使っていきたい物」がある。みなさんにもあると思う。もう古いのに、大好きでどうしても捨てられない物。大切な人にもらった物。使うたびに思い出がよみがえる物……。

こういう物に囲まれて暮らしたいなあ、と思うようになった。大量生産された物に疲れ切っていた私が求めていたのは、とてもシンプルなことだったのかもしれない。

自分にとって愛しい物に囲まれて暮らす。愛着を持って、ともに生きる。それだけで「買って捨てる」ループに、少しでもブレーキをかけられる気がした。

ここまで長々と書いてきた私は、すでに好きな物に囲まれて暮らしているようだけど、私の家に来たことがある人は知っているとおり、我が家は物だらけ。それも「愛しいもの」なんて呼べないような物ばかりだ。

忙しい毎日のなかで、やっぱり便利だったり安かったりすることが優先されて「これは良い買い物か」なんてことを考える余地も与えないくらい、私の周りは物で溢れている。物欲がない、買い物がきらいだって言っていたのに、それでも物に埋もれている。「愛しいものに囲まれて暮らす」って簡単に言ったけれど、実は難しい。

長い年月を経て、ようやく「物」と向き合おうと思えるようになったのだ。これからゆっくり、選んでいこうと思う。ゲームで主人公が仲間を増やしていくように、少しずつ。

(写真:©kaede takase)

 

この連載「ものとわたし」は、こんな「わたし」が身の回りにある「愛しいもの」を探す旅だ。ひとつ、ひとつ、見つけ出して、額縁に入れるように大切な思い出を書いていったら、きっと物だらけの家のなかが変わっていくんじゃないだろうか。どうだろう。

読んでくれるみなさんにとっても、自分の大切な物を思い出す時間になったら嬉しいなあ、なんて思う。

買い物が好きな人も、きらいな人も、ともに生きる仲間を探すように買い物をしてみませんか。そうやって出会った大好きな物と暮らしてみたら、人生も世界も、ちょっとずつ変わっていくはず、と私は信じている。

1990年東京都生まれ。学生時代に国際協力を専攻し、児童労働撤廃を掲げるNPO法人での啓発担当インターンとしてワークショップなどを担当。製造業や野菜販売の仕事を経て「もっと消費者が作り手のことを思う世界にしたい」という思いから、主に職人や物の向こうにいる人に取材・発信している。刺繍と着物、食べること、民族衣装が好き。

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